「サンクコスト効果(サンクコストバイアス)」という言葉をご存知でしょうか?
すでに支払って戻ってこないコストにこだわってしまい、合理的な判断ができなくなる心理です。
仕事においても人生においても、何かを中止する、割り切ってあきらめるタイミングはとても重要です。
「あのプロジェクト、もっと早くやめていれば損失は少なくなったのに……」「あのサブスクリプションはすぐ退会しても問題なかった……」と、やめた後は簡単にわかることが、やめる前は迷ってしまいなかなか決断できません。
なぜならほとんどの人が、自分が費やした費用、時間の価値を実態より高く評価してしまうサンクコストバイアスを持っているからです。
ビジネスに撤退はつきもの。新規プロジェクトとなると8〜9割は失敗します。既存事業にもライフサイクルがあります。
であれば、経営者やプロジェクトリーダーは、撤退のベストなタイミングを決断できる力をつける必要があるでしょう。
サンクコストバイアスの存在を知っていると、日々の仕事上での判断はもちろん、経営幹部になったときの決断、個人のキャリア形成などいろいろなシーンで役立ちます。
サンクコストとは、直訳すると「埋没費用」です。経済学の領域では「すでに発生し、回収できないコストのこと」を指します。
Sunkは、英単語のsink(沈む)の過去分詞であり、Sunk(沈んでしまった)cost(費用)という意味になります。
簡単に言えば、払いこんでしまい絶対に戻ってこないお金や時間です。
サンクコストバイアスは、米国の行動科学者Richard Thaler(リチャード・セーラー。以下、セーラー氏)によって初めて紹介されました。
セーラー氏は「最初に財やサービスを利用する権利にお金を払うと、その財が利用される率が高まる」ことを提唱します。
その後、米国のCatherineBlumerとHalArkesという著名な心理学者の研究によって、サンクコスト(埋没費用)がお金だけでなく、時間、労力、投資などの後にも同様に影響することが示され、サンクコストの定義は拡張しました。
人間は、これまで費やした金額や時間が大きければ大きいほど「これだけ投資したから価値がある」と考え、非合理的な判断をしがちです。
このようにサンクコスト(埋没費用)が、合理的な判断をはばむことを、「サンクコスト効果」「サンクコストバイアス」「サンクコストの誤謬」「埋没費用効果」などと表現します。
サンクコストバイアスの例:
もちろん、人間は経済合理性だけで生きているわけではないので、買った本が面白くないまま読み続けても本人が満足なら問題ありません。
しかし、ビジネスマンが来週のプレゼン書類作成用に本を読むのであれば、役に立たない本は途中で見切りをつけ、役立つ本を読むほうが合理的でしょう。
企業が古いPCを刷新せず延々使い続けると、最新のITインフラにすることで得られた仕事の効率化、それによって生まれる時間、従業員のスキル向上、モチベーションアップなどを得る機会を失います。
このようにサンクコストは、すでに払った費用だけでなく未来の機会をうばうので、「機会費用=ある経済行為を選択することで失われる利益」と共に語られます。
サンクコストは「コンコルド効果」とも呼ばれます。サンクコストにとらわれた失敗の代表格が、1970年代にイギリス政府とフランス政府が開発した超音速ジェット機コンコルドだからです。
1970年代にフランス、イギリス政府によって開発された、音速の2倍の速さで空を飛ぶコンコルドは、ニューヨーク→ロンドンが通常7時間かかるところを、3.5時間で飛べる「怪鳥」と異名をとった旅客機です。
しかし、開発費は予想の6倍を上回り、さまざまな問題が噴出しプロジェクトは難航。それでも、イギリスとフランスの政府は中止の決断をできず、30年近くコンコルドプロジェクトに投資し続けたことに由来しています。
ここでは、サンクコストバイアスが起因した世界的に大きな失敗例を紹介します。
前述のように「超音速旅客機コンコルド」、サンクコストを起因にした世紀の失敗の代表例です。
イギリス政府、フランス政府の肝入りでスタートしたプロジェクトは1962年に開発着手後、あっという間に予定した6倍の予算2300万ポンド(2020年の1億4000万ポンドに相当)まで膨らみました。
さらに、超音速飛行によっておこるソニックブーム(衝撃波)が問題視され、米国で激しい反対運動がおきたことで米国大陸がとべなくなり、注文のキャンセルが相次ぎました。結局、採算ライン250機に対して、わずか16機しか製造できませんでした。
コンコルドは、イギリス→ニューヨークを約3時間で飛べるまさに夢の音速旅客機。美しいフォルムと高スペックさで人気はあり、当時乗ったセレブたちはみな素晴らしいと絶賛しました。「どんなVIPがのっても主役は飛行機」と表現されるほど、話題になる飛行機でもありました。
とはいえ、運賃は約100万円。一般人はそうそう使用できません。維持費もかかる機種であり、旅客機としての経済合理性はなく、コンコルドプロジェクトの支出は増大します。にもかかわらずイギリス、フランス領政府は1976年から2003年までの30年近くコンコルドを飛ばし続けました。
コンコルドは、2000年に別機が落とした部品が原因の墜落事故やアメリカ同時多発テロ以降、航空需要が低迷したことが影響し、2003年11月に全機が退役しました。
その損失額の巨大さから、サンクコスト効果の別名として「コンコルド効果」という表現が使われるようになりました。現在、コンコルドは各国の航空博物館で展示されています。
(画像出典:dreamstime.com)
戦争の中止、撤退の決断時にもサンクコストバイアスが影響して遅れることが少なくありません。ここでは、米国のベトナム戦争を紹介します。
ベトナム戦争とは、1955年11月から1975年4月30日まで、分断された南・北ベトナムの統一をめぐって展開した戦争です。
1961年に、米国はジョン・F・ケネディ大統領が「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」という名目で派兵を決定。ケネディ大統領が暗殺された後を引き継いだジョンソン大統領は、さらにベトナム戦争への軍事介入を拡大させました。
その後、長引く戦争の成果が見えないことや、テレビで戦地の映像を見た庶民が戦争の正当性を疑問視し、米国各地で反対運動がおこります。1967年には、3万人規模のベトナム反戦帰還兵の会(VVAW)まで結成されました。
米国政府内でも戦争継続に疑問の声が出るようになりましたが、ジョンソン大統領は、1968年初頭にも最大54万人のアメリカ合衆国軍人の南ベトナム領土内投入をするなど介入し続けました。
結局、ベトナム戦争からの撤退を決断したのは、1969年に大統領となったリチャード・ニクソン氏です。1960年にケネディとの大統領選でやぶれたニクソン氏は、再出馬しベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を主張し大統領選に勝利しました。
このように、大統領が変わるまでの長期間、勝てない戦争から撤退できなかったことから、ベトナム戦争は米国のサンクコストバイアスの失敗例として語られます。
(出典:Amazon)
世界最大の自動車メーカー、ゼネラルモーターズ 社は、2009年6月にリーマンショックの影響を受けて倒産し、国有化されました(2013年12月9日に国有化は解消しています)。
倒産にはさまざまな要因が絡みますが、大きな要因のひとつに自動車メーカーでありながらファイナンス利益を追及し、収益の75%を占めていたことが指摘されます。
当時の経営層はモノづくりより金融収益が莫大なキャッ シュフローを生むことを、戦略の成果だと過大に評価していました。(参考:経営志林)
ジャーナリストのDavid Halberstam(デビッド・ハルバースタム)氏の著書『覇者の驕り―自動車・男たちの産業史』では、GMなどのビッグスリーが驕り高ぶり、日本車の攻勢に破れながらも改革を拒み続けていた様子が描かれています。
以前、トランプ元大統領が「米国車が日本で売れないのは本当に日本のアンフェアな貿易政策のせい」と発言し話題になりましたが、このような発言は米国自動車メーカーも1970年代からしばしばしていました。
ゼネラルモーターズ 社は、経営学者のPeter Drucker(ピーター・ドラッカー)氏がGMを研究して好意的に提案を書いた本に対し「世界最強の企業が、なぜ自分からやり方を変えなければならないのか」と激怒した逸話も知られています。
No.1であり続けたゼネラルモーターズ社が、過去に投資したさまざまなサンクコストに捕らわれて、市場の求めるビジネスモデルに改革できなかったことがうかがえます。
なお、一度倒産し国有化された経験を持つ現在のゼネラルモーターズ社は、EVに功勢をかけており、テスラ越えを目指すなど改革路線です。
上記のような大失敗ほどではないにせよ、サンクコストによる判断ミスは、日常のビジネスのいたるところで起こっています。
現場目線ではサンクコストの判断は非常に難しいものです。
ベンチャー企業あるあるだと思いますが、最初の事業はまったくうまくいかなかったけど、そこで得たノウハウ、ヒントをもとに次の事業に生かして、結局当初の予定事業とはまったく違う事業が核となり、成長軌道に乗ったというケースは少なくありません。
何でもコストカットすると未来の芽を詰むかもしれません。かといって、サンクコストバイアスに影響されて、コスト超過によって母体があやうくなっては元も子もありません。
サンクコストバイアスによる判断ミスを防ぐには、どうすればよいでしょうか?
一つには、プロジェクトの当初から8〜9割は失敗するという前提で、撤退基準を改めてきめておくことが大切です。
また、サンクコストはあくまで埋没費用。それと今後も活用できる無形、有形の資産は別に捉える必要があるでしょう。
培われた技術、従業員のスキルは転用可能なのです。サンクコストを正しく理解し、いざというときサンクコストバイアスに影響されない撤退の仕組みを用意しておくことがポイントです。
サンクコストバイアスは、人間がもともともっている非合理的な判断傾向です。このサンクコストバイアスをプラスに働かせることもできます。
例えばプライベートなら、何かの資格をとるために有料スクールに入り、授業料がもったいないから勉強する、筋トレを習慣化するために高いトレーニングウェアを買うなど、無意識にサンクコストバイアスを活用する人はいるのではないかと思います。
以下は、サンクコストバイアスをマーケティングに活用している例です。
(出典:ビズリーチ)
一般の転職サイト、転職エージェントは利用者は無料、企業は有料(掲載ベース、成果報酬ベース等)ですが、ビズリーチは、転職者が課金する転職サイトを日本に初めて持ち込みました。
ジムや習い事と同じように転職サイトの会費をとるようにしたのです。同時に、入会資格を当時年収1000万円クラスにしぼり、逆に企業の利用は無料として、多数の優良求人を集めることに成功しました(現在は企業も有料)。
2022年現在は年収の指定はないようですが、ハイクラス層にしぼって課金するビジネスモデルは継続しています(無料会員登録もできますが応募は有料会員のみ)。
ハイクラス層にとって月会費3000~5000円程度は痛手のある額ではないこと、数ある転職サイト、転職エージェントに同時に登録しても、課金したサイトは元をとりたいという心理(サンクコスト効果)が働くので、ビズリーチをより活用するようになる効果もあったのでしょう。
スタート当初、「日本ではうまくいかない」という評判もかなりあったビズリーチのサービス、大方の予想に反し大きく成長しました。
(出典:Salesforce)
SaaSのように操作が難しいサービスのベンダーは、ユーザー教育に熱心です。例えば、CRM世界No.1のセールスフォース社は「Trailhead」というSalesforce のスキルを身につけるツールを無料で提供しています。
米国の心理学者 Martin Coleman(マーティンコールマン)氏の研究によると、埋没費用(サンクコスト)の誤謬は教育にもあてはまり、人は教育に投資すればするほど、教育を継続する可能性が高いそうです。
学べば学ぶほどその内容は価値があると思うようになるなら、ユーザー教育への投資は、ファンを増やしサービス継続率を高めることにつながるでしょう。無償の教育サイトにはサンクコスト効果があったのです。
(出典:楽天市場)
フォーブス社の2020年のデータによると、米国企業の90%以上は何らかの報酬を発生させるロイヤルティプログラムを活用しています。
米国レビューサイトSmallbizgeniusの2021年の統計では、消費者の75%は報酬を提供するブランドを好み、優れたロイヤルティプログラムがある場合、70%以上の人がそのブランドを他者に推薦するというデータが出ています。
もちろん、日本でも今やまったく珍しくはありませんが、ECサイトなどが活用しているポイント付与、リウォード提供は、ユーザーの継続利用につながります。
消費者にとって、これまでそのブランドで買い物をした費用、使った時間はサンクコストですが、金銭的なバックがあれば、買い物の後悔をやわらげ満足度がやや上がるでしょう(還元率によります)。
人は自分がお金や時間を使ったことを、実際より高く評価するサンクコストバイアスがあるので、還元があるとますます高く評価するようになり、その結果エンゲージメントが高まることが予測できます。
(出典:skygate)
サンクコストバイアスは、アンケートや問い合わせフォーム完了率向上にも活用できるでしょう。問題数があまり多くないアンケートだと、パーセンテージが小気味よく上がると快適で、最後の送信ボタンまで一気に進められます。
「問い合わせフォーム」にも、7割入力をこえたあたりでインジケーターを表示すると有効です。米国のビジネスニュースサイトTHE MANIFEST社の調査によると、エントリーフォームまで到達しても入力を完了させるユーザーは約20%しかいません。80%は入力中に気が変わります。
コンバージョン率をアップさせる前提として、入力しやすくさくさく進める問い合わせフォームの最適化が必要です。ただ、7~8割完了しているインジケーターが表示されれば、ここまで費やした労力をムダにしたくないサンクコスト効果によって、より完了率が上がることが期待できます。このような小技も有効に活用しましょう。
ビジネスが成功率100%ということはありえません。撤退スキルがあるかどうかは、企業にとって非常に重要です。
撤退する場合、すべてがサンクコストではないことに留意しましょう。あくまでかえってこないコストがサンクコスト。撤退する事業には転用できる資産もあります。あのサンクコストによる世紀の大失敗「コンコルド」ですが、「コンコルドは去ったがエアバスは躍進した」といわれるように、技術がその後のエアバスの成功に生かされました。
サンクコストを正しく理解して、最適なタイミングで「戦略的撤退」ができる仕組みをあらかじめ用意しておけば、致命傷を負うことを避けられます。また、新規事業にチャレンジし失敗しても、そこで得た経験をもとに、また新たなチャレンジができるレジリエンスの高い組織を作ることができるでしょう。