「リテンション(retention)」という言葉は、ビジネスシーンで割と使われるカタカナ英語です。マーケティングなら「リテンションマーケティング」「リテンション率」、人事領域では「エンプロイーリテンション」といった具合でしょうか。
ビジネスでは、顧客であれ従業員であれ「関係性を維持すること」は非常に重要。特にSaaSなどのサブスクリプションビジネスにおいて、「カスタマーリテンション」は生命線と言っても過言ではありません。
本記事では、主にマーケティング視点でのリテンションの意味、重要性、計算方法やリテンション率を高めた企業事例などを紹介します。
リテンション(retention)は、「維持、保持、継続」という意味の英単語が語源です。つなぎとめるというニュアンスであり、単体でも使われますし、他の用語と組み合わせたいろいろなビジネス用語があります。
特に最近よく使われるのが、カスタマーリテンション、エンプロイーリテンションの2用語。それぞれの意味は以下のとおりです。
※正確にはレートがついて「〇〇率」となるのですが、しばしば省略されて使われます。
カスタマーリテンションもエンプロイーリテンションも、昔から大事にされていた概念ですが、近年さらに注目されてきた背景には、日本の急激な人口減少があります。国内マーケットで勝負している以上、売上げ拡大も人材採用もパイの奪い合いになりつつあるのです。
母集団が小さくなっただけでなく、近年のような成熟社会では商品であれ就職先であれ、魅力ある選択肢が豊富にあります。顧客や従業員がよりよい体験、よりよい環境を求めて去っていく可能性が高くなっているため、企業はますますリテンションに力を入れざるを得なくなりました。
日本の人口ピラミッド
(出典:国立社会保障・人口問題研究所)
ここでは、カスタマーリテンション、エンプロイーリテンション、SaaS業界でよく使うネットレベニューリテンションが、利用されるシーンを解説します。
カスタマーリテンション(Customer retention)とは「顧客の維持」という意味です。企業ではカスタマーリテンション率(顧客維持率)を重要指標として、定期的に計測します。
一般に売り切り型ビジネス(高額不動産等)以外、顧客が継続して取引してくれるかどうかは将来的な売上げに大きく影響します。カスタマーリテンションレート(顧客維持率)が1%上がるか下がるかが、長期で見れば相当な売上げの差になるので、企業もステークホルダーも非常に重視します。
例:5%カスタマーリテンションレートが違う店舗の60カ月後の売上げの差(Shoppify)
(出典:https://www.shopify.com/ph/blog/customer-retention-strategies)
エンプロイーリテンション(Employee retention)とは「従業員の維持」のことで、エンプロイーリテンションレートは「従業員定着率」のことです。
前述のように、近年の日本は少子化が進み若者が採用しづらく、かつ近年の若者は転職に抵抗があまりなくキャリアアップのために転職することも普通にあるため、エンプロイーリテンションに力をいれる企業が増えています。
昔は優秀な人材の維持のみに力を入れる企業が多かったのですが、最近は平均的な人材のリテンションも強化する企業が増え、やめた社員の出戻りを歓迎するアルムナイなども普及しつつあります。転職しようとする人材の引き留めも以前より熱心です。
SaaS業界では「ネットレベニューリテンション(Net Revenue Retention)」「ネットダラーリテンション (Net Dollar Retention)」という指標も活用されています。略すとNRR、NDRで、2つとも同じ意味です。既存顧客の売上げが前年に対してどのくらい維持できているかを示す指標で「売上継続率」「売上維持率」とも呼ばれます。
MRR(既存顧客の月度売上)が前年度に対して何%かを出して、それに基づき次年度の売上げを計算します。100%以上なら安定経営とみなされます。
ここでは、SaaS業界のマーケティング担当者にとって重要なカスタマーリテンションについて詳しく解説します。
カスタマーリテンション(顧客の維持)がなぜ重要なのかというと、一般に多くの企業の売上げの基盤は、既存顧客のリピート売上げだからです。
5:25の法則という、米国コンサルティング会社Bain & Company社の調査結果をもとにした法則をご存知の方も多いと思います。これは、顧客維持率を5%増加させると、利益が25%~95%増加するというデータから由来しています。このように顧客のリテンションは、売上げ拡大において非常に重要です。
もちろん新規顧客開拓も重要です。ただ、既存顧客で安定した売上げをあげながら新しい顧客を増やさなければ、ざるで水をくんでいるような状態であり、なかなか右肩あがりに成長できません。
既存顧客の売上げが安定していてこそ、トータルの売上げが大きくなります。さらに、顧客維持率(リテンションレート)が高いことは、以下を意味します。
カスタマーリテンション(CRR)の計算方法は以下のとおりです。
計算式:
計算の手順:
※期間終了日の顧客数から期間中に獲得した新規顧客の数を引くのは、顧客が離脱しても新しい新規顧客がカウントされると、去った顧客数がわからなくなるためです(例:期間中に10社去っても10社新規獲得していれば100%になってしまいます)。
カスタマーリテンションを高めるアプローチにはさまざまな手法がありますが、ここではマーケティング部門、セールス、カスタマーサービス部門が知っておきたい方法を紹介します。
米国Thrivemywayが提供する「Useful SaaS Stats and Trends 2022」によると、トライアルユーザーのうち、サポートやセールスマネージャーから連絡を受けた人の70%がエンゲージメントを高めています。
オンボーディングプロセスにはいろいろな手法(テックハッチ、ロータッチ、ハイタッチ)がありますが、SaaSはユーザーにとって覚えることが多い、ややハードルの高いツールです。
もし初期の離脱者が多いのであれば、サービスそのものあるいは操作ガイドがわかりづらい可能性が高いので、ハイタッチなアプローチを検討してもよいでしょう。
(参考:Useful SaaS Stats and Trends 2022)
2021年のZendeskの「カスタマー エクスペリエンス トレンド レポート」によると、ユーザーの 73% は「迅速なサポート解決」が優れたカスタマー エクスペリエンスの鍵であると述べています。
どのくらいの速さを求めるかは、年代によってもチャネルによっても異なり、ミレニアル世代やZ世代はSNS、アプリ内メッセージ、ソーシャルメッセージングアプリ。それより上の世代は、電話、メール、店頭での対応を好みます(顧客の望むチャネルで対応することも重要)、総じて期待する応答時間は短くなっています。
以下のグラフのように、電話の場合5分以内と回答した人は51%、チャットでも28%です。
(出典:Zendesk)
どんなに優れた商品・サービスでも必ず改善点はあり、顧客はいろいろな不満を持ちます。離脱時のコメントは特に重要です。見当違いのクレームもあるでしょうが、ユーザーにとってのペインポイントの可能性は高く、さまざまなヒントがあるはずです。多くの顧客が黙って去るなか書いてくれる内容は、よほどのことかもしれません。
以下のような顧客の不満を、会社の製品・サービスに反映させる仕組みの構築が重要です。
具体的には、担当部門を決め、会議のテーマに組み込むことを決めましょう。なかなか顧客の不満を改善に結びつけられないのは、ループする仕組みを構築しないからです。仕組みがないと往々にして現場まかせになり、情報の流れは止まりがちです。
カスタマーマーケティングに注力
不満を解決するスタンスだけでなく、より素晴らしい関係性を築いてカスタマーリテンション率を向上させるアプローチも大切です。カスタマーマーケティングに力を入れましょう。
手法例:
リテンションにつながるだけでなく、日頃からSNSでやりとりしていたり、ユーザーコミュニティで顔を合わせたりしていれば、比較的気軽にポジティブな意見もネガティブな意見も伝えてもらえます。そのため、それを新商品開発やサービスの向上に活かすこともでき、フィードバックを集める手法としても適しています。
ここでは、カスタマーリテンション率を改善した例を紹介します。
(出典:https://note.basicinc.jp/n/n33053f98d7f6)
BtoB向けWebマーケティング支援ツール「ferret One」を提供する株式会社basicでは、カスタマーサクセス部門にハイタッチ組織を立ち上げるなど、顧客に寄り添い顧客の声を活かす施策を実施し、7カ月ほどで顧客継続率を4割から8割超まで上昇させました。何と最初に行ったのは、全顧客への訪問です。詳細はこちらのnoteをご覧ください。
主な施策:
(出典:株式会社hokan)
保険業界の営業向けSaaSを提供する株式会社hokanは、2020年にCRE専任のチームを立ち上げました。CREとは「カスタマーサクセスを担うエンジニア」のことで、ミッションはサービス導入の重要フェーズで最高のサービス体験の提供です。
既存のシステムからhokanへリプレイスする導入フェーズは、大量のデータを扱う難易度の高いステージです。デジタルに詳しくない顧客を、CREチームのエンジニアがサポートすることで不安、疑問を解消してもらい、スムーズなオンボーディング支援を実現した結果、顧客継続率が99.4%まで向上しました。
(参考:Seleck、hokan採用サイト)
(出典:Gravity)
米国シアトルの決済代行会社グラビティ・ペイメンツ社では、2015年にCEOのDan Price(ダン・プライス)氏が自分の年収を110万ドル(約1億円)から7万ドル(約830万円)に減額し、従業員の最低年収を3.5万ドルから7万ドルに引き上げました。
アメリカは、労働者とCEOの賃金差が日本と比較にならないほど大きいのですが、ダン・プライス氏は社会主義者とののしられながらも実行。結果は以下のとおりです。
COVID-19 によって収益が 減少した際は、従業員が自発的な減給を提案したエピソードもあります( 2020 年 には削減した給与を返済)。このように従業員への投資がカスタマーリテンション、従業員エンゲージメントの向上につながりました。(参考:ハンフティンポスト)
カスタマーリテンション率、離脱率などを公表する企業は、日本でも海外でもあまりなく、業界やビジネスモデルごとの平均値が見えづらいところがあります。
統計では SaaS 企業の顧客離れ率は1 カ月あたり 3 ~ 5% (リテンションレートは95~98%)。エンタープライズ SaaSの顧客離れ率は毎月 1% 未満(リテンション率99%)です。しかし初期段階の企業は1 年で最大 15% の解約率になるとあります。
SaaSについての貴重なデータ、ニュースを配信する「Leeny's Newsletter」で、ビジネスモデル別に各専門家によるサインアップをしてから 6 カ月後の適正値が出ていますが、割と数字はばらついています。また、もっと低めの数値が出ています。
今の数値がかなり低くても上記事例のように短期で倍にできたケースもありますので、地道に効果のありそうな施策から取り組むことをおすすめします。
エンプロイーリテンションとは「従業員の定着」のことであり、エンプロイーリテンションレート=従業員定着率です。人事領域の言葉ですが、人材の採用、教育にかかるコストは膨大で、営業努力やマーケティング努力を相殺することもあるので、必ず理解しておきましょう。
エンプロイーリテンション率の計測方法は以下のとおりです。
数値はもちろん高い方が望ましいです。外資系コンサル業界のように、ハードで離職率も高いが年収も高いと、入社する人材がわかって挑戦するケースは別として、一般にエンプロイーリテンション率が低い企業は、ブラックと呼ばれます。
ここでは、エンプロイーリテンションを良好にする方法を解説します。
まずさまざまな離職に関する調査では、上位トップに必ずといっていいほど人間関係、仕事内容のミスマッチ、給与待遇への不満が入ります。
2021年のHR総研が行った「人材定着の取り組み」に関するアンケート結果も同様の結果ですが、こちらは回答項目が細かく、1位が「上司との人間関係」になっています。
(出典:HRpro)
人事領域では、離職、従業員満足度、ワークエンゲージメントという概念の関係の研究から、以下のアプローチがリテンションに有効とわかっています。
上司からのポジティブなフィードバック、同僚からのサポートは、職場でのストレスを減らすだけでなく、仕事への前向きな気持ち、意欲を上昇させ、結果としてリテンションにつながります。施策としては以下があります。
前述の調査では、大企業で「社内でのキャリアアップが見込めない」という離職理由が30%だったことが特記されています。大企業の社員は待遇面で不満はないものの、仕事の任され方、自分が成長できているかに不安を覚える傾向があるようです。
この場合、仕事の裁量権の拡大、成長の機会の提供は、リテンションに有効です。すべての人材を希望どおりに異動はさせられませんが、できるだけ社内のキャリア設計に幅を持たせることがポイントです。前向きな従業員が、プロジェクトにチャレンジできたり、公募制度に応募できたりするとよいでしょう。
インターナルマーケティングとは、従業員に対するマーケティングです。顧客ニーズをつかんで満足してもらい長く取引してもらうマーケティングと同じように、従業員のニーズに応えることはリテンションに有効です。
多くは人事が行うことですが、以下のようにマーケティング部門ができる施策もあります。
ここでは、エンプロイーリテンションを改善した3社の例を紹介します。
(出典:Great Place to Work® Institute Japan)
住宅ソリューションを提供するiYell株式会社は、2016年設立ながら2018年~2022年まで GPTWジャパンの「働きがいのある会社ランキング 」にランクインし続けています。
iYell社は、設立2年で離職ゼロ(つまりエンプロイーリテンション率100%)であることも評価されました。
2年なら簡単だと感じる人もいるかもしれませんが、起業当初というのは「創業メンバー離散の法則」があるほど人が辞めやすいフェーズです。一般にビジョンが曖昧、メンバーの持つカルチャーはバラバラ、売上げは安定せず、組織も未成熟など課題だらけだからです。
iYell株式会社は、インターナルマーケティングを非常に徹底しています。「日本一働いてよかったと思える会社」を目指し、以下のような施策を進めました。
(出典:サイボウズ株式会社)
サイボウズ株式会社と言えば、「働き方改革の旗印」というイメージがあります。メディアの記事を見ると先進的な人事制度があり、ワークライフバランスは進み、多くの会社のモデルになっていると言えるでしょう。
しかし、2000年代前半は離職率28%で、会社に泊まる人がいるほどの長時間労働文化。非効率な社内ルール、研修期間中には飛び込み営業を実施、というブラック度が強い企業だったそうです。経営者が代わった2005年以降、以下のような施策を進め離職率を激減させます。ちなみに現在の離職率は3~5%程度です。
(参考:サイボウズ株式会社Blog)
(出典:アクセンチュア株式会社)
激務で知られる外資系コンサルティングファーム。人気業界であり、入社する人も雇用の安定より成長できる環境、ステイタス、高い年収を求める傾向があるため、エンプロイーリテンション率が低くても、それほどマイナスイメージはありません。
しかし、アクセンチュア株式会社は2014年から働き方改革に着手し、2019年に離職率を半減させました。つまりリテンション率が倍になり、もともと人気企業ですがより魅力が倍増したのです。施策の一部を以下に記載します。
(参考:President.jp、アクセンチュアHP)
上記の事例を見ると、カスタマーエンプロイー向上のために従業員の待遇改善に力を入れる企業が多いことに気づくと思います。近年は、特にサービス職において従業員満足度が顧客満足度の向上、ひいては収益に影響すると多くの研究でわかってきたため、多くの企業が「従業員ファースト」を掲げています。
マーケティング担当者も、カスタマーリテンション改善を考える際に「カスタマープロフィットチェーン」を念頭においておきましょう。SaaSの場合、セールス、カスタマーサポート、カスタマーサクセスなど顧客と接する職種が多いので、この考えは非常に重要です。
現場の仲間を大事にすることで、彼らはやる気になって仕事に取り組み、その結果企業が顧客から指示され、売上げも上がるという構図です。
サービスプロフィットチェーンの概念図
カスタマーリテンション、エンプロイーリテンションは、企業の成長を大きく左右する重要な指標。事例を見ても、カスタマーリテンションの向上は、いろいろな施策の努力の結果表れるものです。
これだけでというものは見極めづらいのですが、マーケティング部門ならカスタマーマーケティングとインターナルマーケティング、カスタマーサクセス部門ならオンボーディングの手助け、カスタマーサポート部門ならスピードの改善などは、かなり重要でしょう。
バリューの浸透などには時間がかかります。しかし、SNSによる交流、ユーザーとの勉強会の主催などは比較的短期間で実施できます。長期的な施策、短期的な施策を並行して計画を立てて取り組んでみましょう。