起業は才能でしょうか? 天才的なひらめき、プロダクトの開発能力、それを世に出すタイミングを見極める嗅覚、さらには有能な人材をひきつける能力を持つ人材だけが成功するのでしょうか?
アップルのスティーブ・ジョブズ氏のような、まさしく絵に書いたような天才起業家はたしかに存在します。別世界のような華やかさです。しかし、iPhoneが技術的には高度ではなかったことはよく知られています。
世の中に旋風を巻き起こすような製品・サービスを生み出すには、技術だけでは不十分です。市場にフィットする製品・サービスを生み出せるマーケティング力と、それをベストなタイミングでリリースする見極め力が必要です。
本記事では、スケールアップが目指すスタートアップにとって、特に重要で理解しておくべき概念、「プロダクトマーケットフィット(PMF)」について紹介します。
プロダクトマーケットフィット(PMF)のコンセプトは、米国のAndy Rachleff(
以下ラクルフ)氏(WealthfrontのCEO兼共同創業者、Benchmark Capitalの共同創業者)によって開発され、命名されました。
そして、2000年代にNetscape Navigatorの開発者であり、著名な投資家でもあるMarc Lowell Andreessen(以下アンドレセン)氏によって広められます。
プロダクトマーケティングフィットとは、簡単に言えば「スタートアップ企業がターゲット顧客を特定し、適切な製品を提供することに成功した段階」のことを指します。
(画像出典:slideshare)
アンドレセン氏は、プロダクトが市場にフィットしているときと、フィットしていないときについて以下のように述べています。こちらのコメントのほうが具体的でわかりやすいでしょう。
(引用:12 Things about Product-Market Fit 2017)
(引用:FOUNDX.REVIEW)
プロダクトマーケットフィットとは、スタートアップ企業が優れた製品・サービスを適切なマーケットに送り出すタイミングを得た時点です。以下の図のように企業がプロダクトマーケットフィットに達してから、人材の増強、マーケティングなどを強化することが良しとされています。
(出典:Boldare)
筆者としては縦軸と横軸が逆なのではないか?と思うのですが、おそらくミスでしょう。横軸を時間として捉え、縦軸が成長と見なしてもらえれば、と思います。
プロダクトマーケットフィットが重要なことは、ベンチャー、スタートアップ業界ではかなり知られてきましたが、さまざまな解釈があり、わかりにくい面も存在。ここでは、プロダクトマーケットフィットについてのよくある誤解を紹介します。
どの世界でも先駆者は格好いいもので、後発者はしばしば「パクった」と言われることがあります。しかし、現実には最も早く市場に製品・サービスを送り出したイノベーター企業が途中で頓挫し、むしろ素早い2番手が長期的な勝者となることが多いのが、良しあしは別としてベンチャー市場、スタートアップの世界です。
Facebookも最初のSNSでなく、Amazonも最初のインターネット書店ではありません。今にはじまったことではなく、日本でも昔、松下電器は「マネシタ電器」と呼ばれ徹底した2番手戦略で成功しました。
もっともソニーは「他社にとってのモルモットで結構」と言い切り大きくなりましたが、スタートアップ企業は大抵の場合、資金が持たないので、早期にスケールしすぎて頓挫するケースは少なくないのです。
筆者の前職のHubSpotも最初のマーケティングオートメーションやCMSを開発した会社か?と言われると答えはNo。当然CRMは全然違うことは皆さんもご承知のはず。
ですので、後発でもなんでも良いので、マーケットのニーズに合っているかに注力すべきで、競合よりも先発か、後発か、というのは意識しすぎる必要はないと思います。
実際に、CB Insigtsによるスタートアップ企業失敗の理由の1位は「市場にニーズがなかった」です。2位が「資金のランアウト」です。スタートアップ企業はイノベイティブであることだけでなく、とにかくPMF(市場にフィットすること)を意識し続けることが重要なのです。
(出典:Cbinsights.)
前述したとおり、HubSpotもマーケティングオートメーション(MA)製品に関しては市場で二番手三番手、CMS(Content Management System)に関してもWordPressなどの絶対王者が存在、CRMはSalesforce.com。サービス系の製品にはZendeskなどがおり、市場一番乗りだった製品は(おそらく)一つもなかったのでは無いかと思います。
アンドレセン氏は、PMF時点での製品は、基本的に機能していれば特別に優れたものである必要はなくてよいと主張しています。
ラクルフ氏も、最も成功したスタートアップが、ごく初期の頃に世界最高の経営陣を擁していたわけではないと以下のように述べています。
「彼らはたまたま、買い手が必死に解決策を求めいた痛みのポイントに対処するアイデアを思いついたか、あるいはそれにピボットしたのである。」
アイデアをもとに顧客が買いたいものの開発するために、試作を繰り返していくことのほうが重要です。
試作品を社内の担当者に使ってもらい製品に磨きをかけるという手法もあります。たびたび話に出るHubSpotでは、最初の製品群がマーケティング製品だったため、社内のマーケティング担当たちに製品を使ってもらいフィードバックをもらうということを繰り返し行っていました。
2013年ごろから製品を知っている筆者としては、当時の製品の使い勝手は決して良いとは言えませんでした。率直に言えば、使い勝手はかなり悪かったです。ビジネスブログなどのオウンドメディアを運営するのであればメタ情報の編集を欠かすことはできませんが、そのメタ情報ですらコードをいじらないと編集できない有様でした。
つまり、当然試作の段階では、それよりもはるかに簡素な状態で問題はなく、製品自体が上記のような通常業務をカバーできるほどの完成度は必要ありません。そのため、マーケティング担当者たちは自身で業務をカバーできる他社製品を導入、導入された他社製品の良いところを自社製品に取り込むなどして完成度を高めました。
プロダクトマーケットフィットは、重要な指標ですが市場は常に変化しています。ライバル企業が予想外の素晴らしい機能を追加してくるかもしれません。業界外から代替製品が登場することもあります。
従って、プロダクトマーケットフィットのタイミングに達してからも、企業は常に市場に製品・サービスをフィットさせ続け、自社の競争優位性を高めていく必要があります。この段階において必ず行って欲しいのが自社のペルソナ像をブラッシュアップし続けること。
HubSpotの中で行われていた興味深い行動の一つにペルソナのブラッシュアップがありました。初期のマーケティング製品は、(今となっては)比較的デジタルマーケティング初心者向けの製品でした。
たとえば、ブログ記事を公開したい、メール配信を行いたい、ウェブサイトを更新したい、これらをあちらこちらにログインせずに一箇所から効率的に行いたい、など。つまり、成果指標はもちろん存在しながらも、サイロ化した業務を効率的に行いたい、という定性的な課題を抱えているペルソナが多く存在していました。
しかし、数年経つとそれらのペルソナや顧客像もより高度なデジタルマーケティングを行う必要が出てきます。それゆえ、ペルソナの課題がレポーティングやリード獲得などの定量的な課題にシフトし、製品が解決すべき課題の軸に変化が起こり、当然製品もその変化についていかなければいけません。
このように、プロダクトを市場投入してからも製品の新機能追加やアップデートを行い続けるSaaS企業であれば、常にプロダクトマーケットフィットは意識が欠かせないということです。
では、製品が市場にフィットしている(していない)かどうかは、どうやって見分けることができるのでしょうか? もちろん、感覚的に判断するものではありません。何種類かのベンチマークが活用されています。
製品市場によって適合ポイントが異なるので、自社、各プロダクトにあったベンチマークを見つけることが重要です。
製品が市場に投入されて、市場に適合しているかどうかを判断するためには「売上高の成長」と「利益」が重要な要素になります。
この2つのレバーを組み合わせる指標が「SaaSの40の法則」です。「40の法則」では、成長率と利益率の合計が40%以上であることがプロダクトマーケットフィットの目安になっています。
これは、売上高が伸びていれば営業利益率が低くても成長が進んでいるとみなす考え方です。SaaS企業のように損益分岐点がかなり先にあり赤字先行になるビジネスモデルの企業のベンチマークとして重要であり、米国では投資家が企業へ投資を検討する際の一つの基準になっています。
顧客にアンケート調査を実施して「この商品(サービス)が利用できなくなったらどう感じますか?」という質問を行います。「とても残念に思う」という回答が40%以上を占めた場合は、スタートアップにおける最大の課題である顧客にとって「なくてはならない製品の開発」をクリアできたと見なされます。
たとえば、Slackは2015年時点で顧客の51%が「very disappointed」と回答しています(あのslackがです、かなり衝撃的な数字だと思いませんか?)。
(出典:Product Lessons)
ただし、アンケートは対象の母集団の特性、誰にいつ聞くかetc、によって結果は変わる点に留意しておきましょう。
また、HubSpotでは(正確な名称は忘れましたが)カスタマーミーティングという顧客と向かい合うミーティングを月に一回行っています(本国の米国にて)。このような場で、顧客から忌憚なき意見をもらいプロダクトチームにフィードバックを返し、ペルソナの課題に向かい合う手法などもあります。
NPSは、日本でも顧客エンゲージメントの測定ツールとして割とポピュラーになり、プロダクトマーケットフィットの指標としても有効になってきました。
前述のラクルフ氏も、自社の製品・サービスに対する顧客の愛の大きさを予測するための素晴らしいツールとしてNet Promoter Score (NPS)を提案しています。
NPSは、スコア40点以上であれば「正しい軌道に乗っている」とされています。
しかし、NPSは単独でプロダクトマーケットフィットの指標として用いる場合それほど高い精度ではありません。たとえば、アップル、Google、FacebookなどはのNPSは、いずれも高くありません。
(出典:Customer.guru)
日本企業にいたっては、国民性も影響してか回答が中央値による傾向がありNPSの数値はさらに低く業界トップでも軒並みマイナススコアなので、米国基準の「40点以上」は物差しでは判断できないでしょう。単独で活用することなく他指標と組み合わせて活用することが望ましいといえます。
プロダクト マーケット フィットのインジケーターとして、顧客定着率も活用されます。製品・サービスの更新やリピート購入こそがプロダクト マーケット フィットを示すという考えです。たしかに、アンケートよりも現実に近いでしょう。
解約が容易なSaaSビジネスの場合、高い定着率は製品の市場適合性を示す優れた指標となります。一般に、解約率が20%未満であれば、定期的に製品を使用して支払いをしたいと考えている顧客の強固な基盤を持っていることになります。
筆者のnoteや弊社ブログで繰り返し伝えているのですが、PMFが明確に達成できていると見込めてから、緑の領域であるスケールさせるための獲得施策をスタートするようにして下さい。
年間の顧客定着率を使う手法もあります。
当社ブログでも紹介しているHarvardHBS教授で元HubSpotのCROであるMark Roberge(以下ロバージ )氏によると、米国のIT業界全体では「年間顧客定着率90%以上」が世界的なベンチマークとされているそうです。
ロバージ氏は、米国の比較的優秀な企業はPMFのインジケーターに「長期的な顧客定着率」を活用しており、さらに特別に優秀な企業はリーディングインジケーター(先行指標)を活用して「顧客定着率」を「予測」していることに着目しました。
あらゆる企業で最適なインジケーターが定義できるフレームワークを開発しています。
詳細は、以下の記事をご覧ください。
The Science of ReEstablishing Growth :成長戦略に再び舵を切るタイミングは? 科学的アプローチから考える
2021年には、国内で新規事業のデジタル化を推進するスタートアップのSCENTBOX社が、AIを活用しProduct/Market Fitを実現するSaaSプロダクト開発に向けた実証実験をするとリリースしています。
これからもさまざまな測定方法が出てくるでしょう。そして、当初はあまり精度が高くないのが世の常ですが、よりよい指標を見つけるためにAI関連は注視しておくとよいでしょう。
2020年に登場したClubhouse(クラブハウス)はあっという間に世界に広まりました。UIの魅力、世界的なSNSの普及、コロナ禍などさまざまな影響があるでしょう。「海外からの黒船襲来」「なぜ日本からはこんなサービスが生まれないのだ」と言われたりします。
しかし、実はこのような革新的なサービスも、日本では2012年にすでに音声SNS「Voice Link」が、クラブハウスの一年前にも「ダベル」が公開されています。いずれも同じような機能と評されています。
Clubhouse(クラブハウス)は、まさしく絶妙なタイミングに市場に出てきました。もちろん、今後の音声SNS市場でどのような競争が起きるかはわかりませんが、イノベイティブで華やかでブランドとして広く認知されたので、他社との競争優位性をすでに確立しました。
国内の先行2社の経歴を見るかぎり、経営者がプロダクトマーケットフィットを意識していなかったとは思えません。才能ある起業家がPMFを意識していたとしても、たとえ市場に一時的にフィットしたとしてもPMFは簡単ではありません。
資金力、経営者および人材の総合力、ライバルの出方、経済の変化などさまざまな予測できない変化が起きるからです。
プロダクトマーケットフィットとは、あくまで成功可能性を高めるための指標です。昔のように起業家の勘、嗅覚に依存せず、多少は科学的に計測できるようになってきたというのが実態であり、自社にあう指標を見つけるのも活用するのも簡単ではないでしょう。
そもそも、新規事業なり起業の成功確率がどのくらいかというと、10分の1、100分の1、千三つと言われるように大企業であれ個人起業家であれ多くは失敗するのです。
(出典:経済産業省)
しかし、このような厳しいデータを承知で「自分なら成功する」「面白い」とチャレンジしたくなるのが起業家なりスタートアップにいる人種なのでしょう。だからこそ成功したときに喝采を浴びます。
幸い、近年は起業の領域も研究されてきたため、どのようなプロセスなら成功確率が高まるか、何を指標にすればよいかが昔より明らかになってきました。予測可能なものはできる限り予測し不確実性を織り込みチャレンジすることで、成功確率を高めていきましょう。
昨今は国がスタートアップ支援に力を入れたり、前述のAIでプロダクトマーケットフィットを診断するSaaSの開発をしているのが大手三菱地所の子会社であるように、スタートアップ市場にエスタブリッシュメントがこぞって参入し、市場自体がこれまでのベンチャーブームとはまったく違う盛り上がり方をしています。起業が一部の奇特なタイプの人だけの挑戦ではなく、エリート人材が後ろ盾ももちながら本気で挑む市場になったという様相です。
さらには、起業の世界も科学的研究が進みさまざまなフレームワーク、ベンチマークが登場しています。記事で紹介したプロダクトマーケットフィットの指標もすべて100%の精度ではもちろんありませんが、これまでのスタートアップがしばしば起こしていた向こう見ずな挑戦、思い込みによる勇み足などを防ぐ効果はあるでしょう。
もちろん、PMFはスタートアップにとって最初の関門。最終的に勝つために何をすればよいか意識しながらできる限りの予測をして成功確率を高めましょう。